五階百貨店

花山商店のある日本橋・五階百貨店は堺筋(日本橋電気屋街)と通称オタロードの南端へんの中間に位置し、主に工具商が軒を連ねているエリアです。ちょっと路地を入って裏へ回ると何十年かタイムスリップしたような感があり、古道具・骨董品や古着を売っている店や家電品,オーディオの中古屋があったりして昔の面影を残しています。

五階百貨店の歴史        

眺望閣は五階(会)の生みの親
明治20年頃は高層の建物が珍しがられた。東京浅草には12階建ての建物ができて評判をよんだ。大阪だって負けてはいけない。明治21年(1888)に、日本橋4丁目の現在の五階百貨店の西側に大阪最初の高層建築、高さ30メートルの”眺望閣”が開業している。六角形で5階建てのパノラマ式高塔として珍しがられ、内国勧業博覧会の頃は、ここを中心に見せ物小屋があった。翌22年4月、北の茶屋町にできた9階建ての”凌雲閣”と並んで大阪名物となり、花火をしかけたり、篝火を点じて夜桜の宴に供したりして市民を喜ばせた。

眺望閣

場内の売店では呉服・小間物・家具・書籍・文具・玩具・菓子類などさまざまなものが売られ、ちょっとした百貨店の趣を呈していた。これが後に周囲で古着や古道具、古金物、古靴などを売るセコハン市場になり、”五階古物市場”または”五階昼店”と呼ばれた。現在の”五階百貨店”の前身である。『浪速区史』には、その様子を「早朝には古物市が立って、倒産品やなかには盗難品もあって警察のこないうちに売ってしまうという風で、未明に売り叩きすこぶる繁盛したという」とある。盗難品云々は定かではないが、それらしいエピソードは数多く残っており、こういった多分なうさん臭さも含めて、五階昼店の魅力であった。
古道具や骨董から日用品まで、また江戸時代からの木綿古着商は、第一次大戦による爆発的商船需要を受けて、船員によってもたらされる舶来の洋服、帽子、ステッキ、ショール、鞄、靴、装身具、貴金属類などありとあらゆる掘り出し物を並べ立てた。モダンな舶来古道具から日用雑貨までが雑然と並び、その中には貴重な骨董や銘品が、埃にまみれて無造作に売られていたりした。
この五階昼店を中心に「日本橋へ行けば、舶来の珍品・骨董が安価で手に入る」という評判を生み、いつしか「日本橋は掘り出し物の町」という定評をもつようになった。

木造建築ゆえに老朽化が進み、明治末期には取り壊されてしまいますが、商人たちは空き地を求めて商売を続けましたが、やがて東関谷町2丁目の空き地に腰を据えることになります。ここで何年続いたか定かではありませんが、大正の末期、商人の上にとんでもない事態が起こります。それは都市計画に基づき道路の新設でした。市道・下寺芦原橋線でした。商売の地が奪われるというので上を下への大騒ぎとなりましたが、東関谷に土地を持つ泉岡氏が見かねて、商人に商いの場を提供しました。まさに福の神でした。
中二階で五棟からなる建物と露店(通称広場)でした。ここに百数十店舗ができました。名称も中二階の方を五会百貨店、広場の方を五階百貨店としたそうです。時は昭和2年のことです。
当時の大阪の商店街の中でも大きなものでした。薄利多売の実利主義がお客さんの心を掴んだと思います。今もなおその思想は受け継がれているのです。

それから同20年3月12日までの約19年間営業し、大阪に「五階昼店」の名を不動のものにしたのです。然し、昭和20年3月13日、B29による大空襲は我が五階昼店を一呑みにし焼け野原と化してしまったのです。

戦争はすべてを破壊してしまったが、日本橋は戦後の復興も早かった。まず露天市が自然発生的にできて、売れるものはなんでも売っていた。とりわけ現在の五階百貨店のあたりには、戦前の五階商人たちがなけなしの商品を持って戻って来て、いち早く商売を再開した。といっても、店舗はかろうじてトタン屋根があるだけの広場である。そこにそれぞれの商人が戸板の上に雑多な商品を並べて売った。
戦前から大阪中に知られていた五階百貨店は、戦後の物資の供給地としてたちまち人々の噂にのぼるところとなる。とくに、建築用の工具類をはじめ、当時は入手が困難だった鉄くぎや鋲、蝶番などがあり、建築会社や工務店の職人に人気があったという。いささか荒っぽい薄利多売の実利主義の伝統は、瞬く間によみがえった。

(「でんきまち大阪日本橋物語」より)

そしてその思想は現在も五階百貨店に受け継がれているのです。

戦前の五階百貨店
戦後の五階百貨店
昭和の五階百貨店
昭和後期の五階百貨店